おかえりなさい  

泣きたくなったらおうちへ帰ろう。

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徘徊のきざし

今日は、爺ちゃんの定期健診で
ちょうど休みの旦那と私がついていき、婆ちゃんの介護認定の第一歩である、医師の診察をしてもらった。

もうすでに定期的にはかかっていない義母が、診察に抵抗するかと心配したけど、そこは看護士さんのプロの技でした。

身体的な診察の後、爺ちゃんも自分の診察に行ってる間に
婆ちゃんは、認知症の問診をしたと思われる。
その後、待合室で「私のことは、なんていいよった?」としきりに爺ちゃんに、聞いてくる。
実際、誰も何も聞いていないのだけど、きっと自分の状態(回答)に自分で不安に思ってるんだろう。

トイレから戻ってきた私の顔を、他人行儀にじっとみて
「元気にしちょったですか?」と頭を下げた。


帰りの車のなかでは口をへの字に結んで( ̄へ ̄*) 口をきかない。


夕方、久しぶりに娘が夕食に来た。(18時半)
玄関先に婆ちゃんが椅子に座っていたが、誰かわかってないようだったという。

和室で娘、長男、次男でワイワイ語っていると、突然、「外で物音がする」と娘が言うので
確認してみようとサッシを開けるとと、婆ちゃんが四つん這いでかがんでベランダにいる。(21時45分)

「お母さん。なんか探してると?」とっさにそんな変な質問。

「いいと!!なんでんいいと!!!いいちゃが!!」と返事。

主人に話すと、今は気が済むようにさせるしかない・・・というけど外は寒い。
爺ちゃんは当然、補聴器はずして寝ているんだろう。病院は疲れたはず。
ハンテンを主人に持たせて婆ちゃんに着させる・・・ちょうど22時45分。

月夜の晩で、明るいが、婆ちゃんの行動にどんな目的があるのか、わからないまま・・・
玄関の電灯を消せもせず。
帰る娘を見送るときに、あえて家族で玄関にでたらそこ(玄関先の車庫)に座って、靴下のまま私を見て会釈笑いをした。

足が悪くなければ(幼少から股関節脱臼のまま成長していて変形している)きっと徘徊しているんだろう。
その場合、気が済むまで付き合うしかない、と聞くので、この場合も同じなんだろうか。

どっちにしても私と主人の言うことを、聞かせるのは難しい。
私も、主人も眠れないまま・・・・・夜が更ける。


主人が爺ちゃんを起こす時間まで。


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  1. 2010/04/27(火) 23:45:42|
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奇妙な行動

婆ちゃんがリビングの片隅の

立てかけた掃除機の向こう側に

体育館すわりで

隠れている



そこは私たちの生活スペースなのだが

つまり

こちら側に、自分で取り付けた鍵をあけて入ってきて


その扉の前に

叱られた子供のように小さくなって座っていたんだ。


リビングには主人も

私も居たのだけれど

気づかないようにそっと入ってきて・・・


ちいさくうずくまって息を殺している。


私は

キッチンにたって、何か動いてるのに気づき

顔をうずめて丸くなっている姑を見つけて

なんか

ゾッ・・としてしまった。


ケアマネージャの知り合いが教えてくれたこと。

奇妙な行動でも必ず、理由がある・・・と。

何だろう。



次の朝

明るく明るく・・爺ちゃんに

「夕べお義母さん、そこところに隠れてたみたいだけど・・・どうしてだろうね。」

というと

「うん。どこいっちょっちゃろかと心配したら、そこにおったらしい(笑)。隠れたっちゃねえがぁ・・」という。


この家族は母を、根っからの善人だと解釈する。
動機を、全部、良いほうへと理解する。


それも
ある意味・・・狂気の沙汰。


それとも

私が冷ややかなんだろうか。

  1. 2010/04/25(日) 02:35:59|
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昭和57年頃・・・「取り合い」

主人には
2歳うえの姉がいて、20歳で嫁いだ。
同時に、主人は大学でうちを離れて(18歳)卒業後、数ヶ月戻っただけで、
再び、就職でうちを離れた。

両親は、それからずっと
同居する2年前まで(平成20年)二人だけの暮らしだった。
子供たちとの親密な生活記憶は、そこで途切れている。
(これが今の問題行動にでてるのかなぁ)

我が家の息子(長男)の歳だ。この歳で手離したのだ。

父は、公務員を退職してから、車の免許を取り
職に就かずに、家事を手伝うほど、こまめに気がつく人で
小さい頃から家事をさせられていた、という。

母の方は、足が悪く、美容院を営んでいたので
70歳まで仕事を持っていた。(過疎化の田舎ですから・・それなり)

結婚して、暮れや夏休みに帰るととても歓迎してくれて
帰りは、車いっぱいのお土産を持たせてくれた。
時々、会うだけの
お互いに「いい顔だけできる距離感」と遠慮はとうてい埋められなかったが

それはそれで、仕方の無いこと。

「うちに5回、帰ってきたら、実家に3回よ。」と、

それが最初に言われた、ショックな言葉だった。
もともと私はほとんど実家に帰らない娘で
何の連絡もしない、つめたい娘だったけれど(つまり制限されても困らない)
・・実家に帰るのを嫌がる姑の感情を、知って・・むしろ驚いた。

それはそれで、仕方の無いこと。
私も息子が嫁をもらったときに、解かることもあるんだろう・・って思って。
すこし、世間の常識感を知った。

「養子にやったわけじゃない。」と、

何を心配してか、しょっちゅうそう言った。
優しい息子が、嫁のいうままに動くことが
ほほえましいとか、あきれたとか、そういう気持ちじゃなくて、「とられた。」と思っていたらしい。
息子が自分の言うことより、私に「どうする?」と聞いてくることが
大変気に障っているようだった。

後に、私が最初の出産後、主人の里で過ごしているときに、そう話してくれた。
「○子さん(私)と、取り合いじゃ。」と1回目。

「取り合い」・・・と52歳の今日までに3回、聞いたかな。
私はいつも、笑って「まぁた~お義母さんわ~」と本気にしてない風に流した。


私は、産後、退院してからは実家で一ヶ月は過ごそうと思っていたが
毎日の姑の電話で、母が(私の)参ってしまい・・たった一週間。

「悪いけど、あちらのうちに行って欲しい。」という母の悲痛な願いがあった。

私が実家にいると、主人が家族に会いにやってきて(当然)
和気あいあいの風景を、きっと想像(妄想)して
居てもたってもいられない・・・そんな状況だった。


※私たちのアパートと、主人の田舎とは車で4時間の距離。その中間地点に私の実家があった。


主人の里では、私は至れり尽くせり。
三食食べて、母乳やってゴロゴロ過ごしていた。
先に姉が2人の子供をもうけていたので、たぶんそうやって過ごしただろうと思う。

孫の沐浴、哺乳瓶消毒、室内温度調節(高千穂は寒い)世話は全部、義父がかいがいしくしてくれた。

もちろん洗濯物も、全部、してもらった。
私は、妊娠中毒であまり動けなかったので、堂々と甘えた。
だって実家で一ヶ月寝る予定だったのだから・・・
同じことしてもらうつもりで腹をくくった。

一ヶ月我慢我慢・・・そうすれば遠く離れて、二人のアパートで
また、自由に楽しくやっていける。

そのころ、なんとなく姑の過干渉、妄想癖
気がついていた気がする。

週末,はるばる会いに来た息子を、嬉々として世話したのは母で
まるで私たち母子は・・・え、餌?みたいな。
玄関でチャイムが鳴ると
姑は、誰より先に迎えに出て行き、お風呂に着替えを運ぶ。(もちろん背中流しは、ないですから!!)


義父はそれを「異常な心配性」と言った。愛情、ゆえに。
どちらかというと放任で育った私には
子供への愛情とともに、「異常な自己愛」にも思えた。

晴れて、アパートに帰る日が来て
赤ん坊の長女を抱いて、お礼の言葉を述べた。

いつものように車のドアも閉められないほどの・・お土産、家電、野菜、魚、肉、冷凍食品、果物、お金。
そして、自分の古着をたくさん持たせた。
あげるものを断る人を、義母はとても嫌った。
裕福な育ちで、タクシーで学校に通ったという義母は、足が悪かったというハンディを負い
昔のことだから、好奇の目にさらされて流した涙もあることだったろう。
他人に、物をあげること、豊かさを誇示するところがあった。

そうだ・・・・車に乗り込む私に
「すぐ、次の子供が出来んように。」と言ったんだった。
なんか、いやだったなぁ。あれ。


あれから30年たって、アルツハイマーの義母が
扉をソーーーーッと開けて

またはベランダのサッシに張り付くように
こちらをうかがい続けるのは

私じゃなくて、息子を見たいのじゃないか・・・と最近、思う。



  1. 2010/04/02(金) 21:59:04|
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