おかえりなさい  

泣きたくなったらおうちへ帰ろう。

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一枚だけ




去年の6月に娘が嫁いでから、8ケ月。

母自身のカメラで撮った写真は、一枚だけ。

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  1. 2010/02/14(日) 11:25:47|
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ジューンブライド

おいしいドレッシングができたから
取りにおいでとメールしたら

娘が電話で「今日はちょっと無理。」と言ってきた。

まるでついでのように
「ヒロピと、いろいろ見て回ったんだけど・・レストランウェディングにしようと思って・・で、仮契約とか、したけど・・・」

「そう。良かったね。早いほうが安心するよ。一生に一度の貴重な経験だから悔いのないように二人で決めなさい。」

(そういう自分たちは、ぜぇんぶ親まかせでしたぁー。夫の親が決めてしまって私は衣装だけの確認しか残ってませんでしたー。義母は美容師でしたからセンスは良かったんですが。)


「六月・・・くらいになると思うから・・。」

「あら、そう。ジューンブライドじゃない?」

「ああ・・そうやね。」

「ドレスもそこで選べると?」

「うん。たぶんね。」

「なんかして欲しいことがあったらいつでも相談にのるからね。」

二人の間のビミョーな距離感を寂しく思うのは私だけだろうか。

口出さない母を

娘は気がついている。


娘と夫は、とてもよく似ている。
私がのびのびと、幸せに、自由に語る時、二人は笑いながら聞いている。
二人は母を癒してくれる存在だと思う。

でも彼女は、彼女の人生を自分の選択で生きていくべきなんだから。


結婚を祝福していることを
どうしたら伝えられるだろうか。

6月まで、ゆっくり考えよう。

  1. 2009/01/20(火) 23:20:38|
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続き・娘からの子離れ

卒業して働き出してからの娘が体調を壊して、
夜になると全身蕁麻疹が出始めたのは夏になる前あたりだった。

「疲れてるんだね。」とは言ったかもしれないが
母の中ではリタイアはあり得なかった。

「高校時代に戻りたい。」
と娘は盛んに言うようになっていた。
わからなくもなかったが、さらりと流していた。

やめる、やめたい、辛い・・・と訴える娘に
「みんなそうなんだよ、はじめは。」と
辛抱強い娘にとことん限界までを試していたのかもしれない。

退職を決意したとき
言葉では自分で決めろといいながら、心では面白くない母の感情は
充分伝わっていたに違いない。
娘の始めての、自己主張だった。
退職届を出して、事務局長にとどめられながら泣いたそうだった。

それからしばらく、蕁麻疹は出続けた。
精神的なもの、と指摘されることを娘はとても嫌がり病院にも行かなかった。
夜の自動車学校だけの、ゆっくりとした生活が一月ほど続いて
娘は自分でレストランのアルバイトを求人広告でみつけて
一人で面接の電話をかけ
一人で採用試験をうけ
そこで、自立を始めていった。

シフトが遅いときは、23時までの勤務で
仕方なく我が家の門限を24時にしてから・・・
娘の行動に、歯止めがきかなくなっていった。
門限過ぎたら、鍵もチェンもして寝てしまう(フリ)母を、恨んだりしただろう。
娘はこんな子であるはずはない、早く目を覚まして本心に立ち返って・・・そんな
自分勝手な筋書きで、親子のシナリオを演じていた。

(年齢19歳から20歳。当然だよなぁ。今、息子はすでに野放し状態だわ。)

それは、
いつも自分がコントロールしていたと思い込んでいた娘の、
その感情をしっかりと見つめてこなかった報い、だと思っている。
わが子を信用できないのは、娘じゃなく私自身の問題だったのに。

そのころ、息子は小学校6年生。次男は1年生。
母と娘の葛藤を、毎晩みながら
幼心に、落ち着かない家だと思っていたかもしれない。

娘がうちを出て、アパートで自活をはじめた。
娘は経済観念もあり、慎重派で、家事も料理もまあそれなりに出来る。
何も心配はなかった。
同時に、我が家はうちを買い引越しをした。

1年が過ぎたころ娘はガリガリに痩せて、(もともと細いが)
うちへ戻ってくることを考え始めたころ・・・

息子は喜び、大賛成をして、姉を迎えようと母の気持ちを動かした。
中学一年の夏。
娘のことは巣立ったものだと思い切り、特に落ち込みもせず
(落ち込んで、暗かったのは父だった。)
帰ってきても、昔の関係には戻ることはなかった。
娘の恋愛はそのまま続いており、母はそれを許すことが出来ないでいた。
ウソをつかない娘の馬鹿正直な生き方は、
母から逃げない、という娘のしんの強いところで
ときおり、下手な生き方だなと思いながらも
娘のそういうところが娘らしい、よいところだと、実は充分知っていた。


母は、息子の部活での活躍と、成長振りに一喜一憂。
成績もグンと伸び、いっそう、学校の仕事にも熱が入り、役員も忙しかった。
部活顧問にへこたれそうに何度もなっていたけれど

娘にしたのと同じように、お母さんもガンバル、あなたも「がんばれ。」
という叱咤激励が教育だと、まだ本気で思っていたんだった。

そして、
ついに優しいこの息子は
この学校側にいた母(女)と、担任先生(女)の矛盾と
部活の顧問(女)の体罰をきっかけに
「大人のいうことはきかない」という怒りが爆発してしまった。

この母が、子供の味方になることは、あのころの子供たちにはきっと期待できなかっただろう。
母は、このような形でしか
本当の親になることが出来なかったのだろう。

娘が、最初に教えてくれた。
人の心を動かすのは、一方的な(愛情という名前をつけた)権威や提示じゃなくて
やさしい同情心や、やさしい言葉なのだということ。

「お母さんはとても心配だから、なんとか返事を返して。」とメールしたとき
あとで娘が言った言葉に愕然とした。

「お母さんが、私を心配してるとは思ったことがなかった。」と・・・
「お母さんはただ、私を言いなりにしようとしているとおもった。」と・・・

愛しているとか
大切だとか

言わなきゃ伝わらないっていう普通のことが、わかってなかった。
多くのことをしゃべってたのは、空振りだ。
鍵閉めたり、罵ったり、ほんと子供みたいに怒りをぶつけていただけ。

だから、息子の反抗には、少し大人に成長していた母は
言葉を選ぶこと、
まず、どういう風に話すかを考えるようになったような気がする。
(息子とは、また、息子との葛藤があったけれど)

今は娘と、一人の成長した女性として、同じ高さの目線になれそうな、予感がする。
娘が時々、母に甘えに帰ってくる週末に
ようやく母の「子離れ」が終わったな、と感じるようになった。




  1. 2009/01/15(木) 20:52:29|
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自立じゃなくて孤立だった

夕べ、何気にNH○をみていて、子供サポート番組に釘づけになった。

ゲストの東ちずるさんや、子供支援ホームのかたや
子供たちの生の声を聴きながら
自分の子育てを、考えた。

私の娘は
母の自慢の子です。

この子が3歳のときに、夫が脳腫瘍で大手術をした。
(手術の前後、初めて両親と離れて2週間、預けられて一度も顔を見なかった)
手術が成功して、
宮崎から東北の病院に、
父と、付き添っていた母に会いにきたとき

母(私)の頭の中は、
昔の面影と変わってしまった父を見て娘がショックを受けるだろう・・・ということよりも

ショックを受けた娘を見たときに
夫がどんなにか絶望するかもしれない、という心配の方が大きかった。

郡山の駅のホームで、付き添い人に連れられてきた3歳8ヶ月の娘を
両腕で抱きしめたとき、

娘がギューっと母にしがみついてきた。
母に抱かれたのではなく、抱きしめてきたのに気づいていてもなお
病室に連れて行く前に
この子に
この幼い子に
父がどんな辛い試練に耐えたのかを
理解させようとさえ、私はしていた。

聞き分けのいい、期待にいつもこたえてくれる、この娘は
病室で緊張して、笑わなかった。
(実際、もし笑いあいの再会があっても、父の顔面の麻痺で、もっとおおきなショックだったと思うが)

宿泊先の庭で、二人きりで
生まれて初めてのユキダルマを作ったとき
娘は、あの天真爛漫な顔で・・・わらった。

それから、息子が生まれるまでの5年間。
3人はトライアングルみたいに、助け合い生きたけれど
娘は、私たちがきっと大好きで
私たちに愛され、仲良く幸せに暮らすための
自分の役目を
きっと一生懸命、頑張ってくれてたんだろうな・・・

貧しいときは、貧しさを楽しみ
無いときは、無くて満足し、
そうして念願だった兄弟が生まれて、娘はほんとに喜んでいた。

中学も
高校も
やっぱり自慢の娘だった。
参観日に行きたくない、とか
センセイに注意を促されるとか
友人関係で問題があって、とか    なんもない。
通知表も、だいたい中の上。母は充分、そんな娘が大好きだった。

男の子からの電話は、取り次ぎたくなかったぐらい・・
コンビニの入り口に、若い男の子がタムロしていたら娘を見せたくないくらい・・・
宝物だった。

娘は、母の喜ぶ顔が見たかったのか、
そういう母が好きだったのか、
母のそばにいつもいた。

このジコチューの母は
そろそろ自立してもらわなきゃあと思い始める頃から

「自分はどう思うの?」
「自分で決めてみたら?」
「自分の人生でしょ、お母さんに聞かないで。」

そんなこと言い出していたんだ。

卒業したら、子育ての大きな一つが終わる、と勝手に考えていた。
下には4年生の息子と就学前の次男。
夫は相変わらず、病弱で
母は、いろんな仕事を抱えていた。

同級生が春休みに入って、心と気持ちの切り替えをする季節に
娘はまだ卒業式も終えないうちに、就職した。

就職先の病院から、医療事務の学校へ通わしてもらい
同じ時期に、夜間の自動車免許を取りに通い始めた。

それはまだ、3月生まれの娘が17歳。
突然、社会に出て
夜は、自動車学校と、別の日は医療事務の学校。

病院の受付では
意地悪な独身女事務員が、いじめてくれて
暗い顔して出社して
暗い顔で、帰ってきた。

母のしたことは、逃がすことじゃなくて
「ガンバレ」と・・・・
お昼にはメールを送り、お弁当を届け、車の送迎をしていた。

どんだけ、母が思いやりの無い、なんもわかってない人間だったかってこと。
数え上げれば
きりがない・・。

あえて、夕べの番組でいわれた中からの、いいわけを言わせてもらえるなら
母もまた、自分が自分の親にしてほしかった事
満たされなかった子供時代の自分の空白を

自分の娘に味あわせないことが、きっと娘を幸せにできる、としんじていたかも知れない。

無関心じゃなった。
放任でもない。
でも、私の思い通りに育てようとしていたんだ。
そして
そのように育つことが、娘の親に対する愛情だったのに。

自分のタイムテーブルで、自立、を期待してしまった。

それは娘にとって自立ではなく

孤立、だった。

そうだよ、捨てられたようなもんだ。がんばってきたのは誰のため??

(東ちずるさんのお母さんと、おなじだ。)

一人で泳ぐ自身も持たせてないのに
ひとりでやってみろと送り出したようなものだった。




  1. 2009/01/11(日) 21:56:46|
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娘の旅立ち

娘が嫁いでから、連休も開け
通常の生活が始まった。

娘の携帯の請求書や、ファッションカタログや
DMが届いて居たので
会社帰りに、玄関ポスト ポストにでも入れといてあげようと思い
朝から、持って出掛けた。

夕方5時過ぎに電話をすると
「今、うち(実家)に帰っている。」と言うので
どうしてか聞くと
父がメールで郵便物がきてることを知らせてくれたという。

(ははあ、呼び寄せたってわけだ。) おとうさん豆電球

「お母さん、胡麻ドレッシング作るって言いいよったよね?」
(取りに来るんだったら、夕べ作ればよかったかな。)

娘のアパート近くのスーパーにいるとわかると
娘も出てきて一緒に買い物をする・・・ことになった。
と言っても、ならんで見て歩くでもなく
それぞれの食卓をイメージするビミョーな“こそばゆさ”。
遠くから見る制服姿の娘が
ショーケースを覗き込んでる姿をみたら

今から、毎日こうやって、夕食の準備して、食べて、片付けて・・
まずは2人分からの新米主婦をやっていくのだろうなと思い
なんだかかわいそうになったのは、・・・自然な感情といっていいんだろうか。
不自然な感情かな?

「今日は何する?」
「肉じゃが・・・かな。」 
「うちは酢豚・・・  絵文字名を入力してください」と言いながら、「取りにおいでよ。」と言う言葉を飲み込んだ。
娘はなかなか感情をみせないけれど
きっと人生の貴重なスタートを
楽しんでるんだろうし、甘えさせてはいけないのだ。

そのうち図々しく、なんでも持っていくようになるのだから、きっと。

先に済ませた母は、片手をあげて娘と別れ
家に向かって行く時間、寂しさがこみあげてくる。

なぜか、感傷的になってるのは、更年期と秋のせいか。

帰ると、ヒロピ(娘の夫)が空港で買ったと言うロールケーキロールケーキ?
父に届けてくれていて
彼なりに気を使って大変だろうね・・・と。
おいしい心使いに、感謝感謝。

母は一番先にドレッシングを作った。

やってやんねぇな・・明日渡せるかな、と思いながら。

  1. 2008/10/16(木) 11:58:22|
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